飛鳥再訪
前回、明日香村を訪れたのは2年ほど前のことと思っていたが、調べてみたら2011年で、もう4年も前のことだった。
9月21日のことだったが、ブログの掲載は2ヶ月も後になってしまった。
今回は、ちょっと忙しいなか、かみさんの誘いがあって、急遽行くことに。
新幹線を新大阪で降り、市営御堂筋線を天王寺で降りる。近鉄吉野特急に、大阪阿倍野橋から乗ったが、禁煙席は私たちが残り最後の二枚だった。今回は飛鳥駅で降りる。
駅でレンタサイクルを借り、最初の目的地、キトラ古墳に向かうが、ゆるやかな登りみちが続き、走り出して5分も経たないうちに息が上がり、レンタサイクルにしたことを後悔する。
このさき、この調子で大丈夫か?

★キトラ古墳
やっとたどり着いたキトラ古墳、しかしさい先悪く、なんと工事中で中に入れないのでした。
キトラ古墳周辺地区体験学習館を建設中で、28年1月20日まで工事だそうです。
この辺りは阿部山と呼ばれていて、阿倍御主人の墓ではないかという説がテレビで放映されていたのを最近見たような気がします。
気になるキトラという名前については、亀虎という説が紹介されている。正面の玄武(亀)がまず目に入るのはうなづけるが、左手、西の白虎だけで、右手、東の神、青龍がなぜ入ってないのかというと、青龍のほうは傷みが激しくて、一見して龍と分かるような状態ではないということか?
1983年に石室の壁画が発見されたが、古墳そのものは、昔からキトラ古墳として知られていたのか?
がっかりしながら、文武天皇陵へ。

★文武天皇陵
「陵名を檜隈安古岡上陵と称する。
文武天皇は追尊岡宮天皇(草壁皇子)の皇子で、慶雲4年(707年)6月に崩御され、11月に飛鳥岡で火葬の上、この陵に葬られたことが「続日本紀」にみられる。」と案内板にある。
即位が15歳、崩御が25歳で、祖母の持統崩御から5年後のことだった。
皇夫人(皇后ではない)は藤原宮子で、首皇子(聖武天皇)を産む。
藤原宮子は不比等の実子ではなく、海人の娘を養女にしたという道成寺にまつわる伝承を展開した梅原猛氏の説は興味深い。

★高松塚古墳への道
高松塚壁画館に入り、壁画を鑑賞。
壁には四神とともに人物像が描かれ、発見当時かなり話題になり、新聞に大きく掲載されたのを、おぼろげながら憶えている。

★高松塚古墳
被葬者は、キトラ同様、なにも分かっていない。
二段の円墳だが、葺き石で覆われていたのかどうか?

★吉備姫王墓
墓の柵内にある猿石。猿の顔には見えないが、横から見ると猿のようにも見える。
全くの直観だが、造形は日本古来ではなく、朝鮮半島からの渡来人によるものではないだろうか。
吉備姫は欽明の孫で皇極や孝徳の母に当たるが、なぜ吉備なのだろう?
欽明の子・櫻井皇子の娘だそうだが、今も桜井市に吉備という地名がある。
欽明から敏達天皇の時代、吉備の国(今の岡山県)に屯倉をいくつも設けている。
日本書紀の欽明天皇の巻は朝鮮半島のことが大半を占めているが、朝鮮出兵に備えて、吉備を補強しようとしたのかもしれない。
時代が下り、斉明天皇が新羅を討つため西進した際、吉備で2万の兵を集めることができたという話が伝わっており、今も倉敷市真備町に上二万、下二万の地名が存在している。

★欽明天皇陵
向かいのうっそうとした森は前方後円墳の前方部。間に、水面が写っていないが周濠が陵の森を取り囲んでいる。

★鬼の俎・雪隠を経て、川原寺跡へ。
斉明天皇は飛鳥板葺宮で即位するが、放火にあい、川原宮へ遷る。
飛鳥板葺宮は、乙巳の変の現場で、入鹿の強烈な思い出が残っているはずだが、
宮をそこに定めたのはやむを得ずだったのか、それとも入鹿の思い出に浸っていたのか?
即位した年の10月に小墾田に移ろうとしたとあるので、やはり板葺宮は居心地がよくなかったのか。
川原宮は一時的な住まいだったらしく、その後岡本宮を造営してそちらに遷るが、岡本宮もまた放火にあっている。
斉明天皇は、天香具山から石上山に溝を掘って、二百隻の舟で石を運ばせたということだが、工事好きの天皇は民衆の反感を買っていたらしい。
『時の人謗りて曰く「狂心の渠。(たぶれこころのみぞ)…」』と日本書紀にある。
この記事へのコメントは終了しました。
コメント