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2015年12月

2015年12月30日 (水)

Andromeda Galaxy

M31_1229
 
年末になってしまいました。
ブログに掲載漏れだったアンドロメダ銀河です。
予定外の撮影で、どう処理するかというイメージもなしに、オーソドックスなM31?
 
M31  NGC224
9月19日1時21分~ L:16×450秒 R:3×300秒 G:3×300秒 B:4×300秒 全170分間露出 (RGBは2bin) 吉備高原 ε180ED STL11000M NJPtemma2

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2015年12月25日 (金)

飛鳥再訪Ⅱ

Photo 

★岡寺 長い坂道を自転車を押して上る。

  「663年(天智2年)草壁皇子のお住みになっていた岡の宮を仏教道場に改め、当時仏教の指導者であった義淵僧正に下賜され、創建一三〇〇有余年の歴史を持っている。」と寺の案内にある。
草壁皇子が生まれたのは天智元年なので、ほんの少ししかここにいなかったことになる。 
 
 671年(天智10年)10月、大海人皇子らとともに吉野に行く。
 679年(天武8年)5月、吉野の盟約、2年後立太子。
 686年(朱鳥元年)9月、天武崩御、10月、大津謀反で殺される。
 688年(持統2年)11月、天武天皇の殯の終了
 689年(持統3年)4月、草壁皇子薨去 690年(持統4年)1月、皇后讃良皇女即位
 696年(持統10年)7月、高市皇子薨去
 697年(文武元年)8月、軽皇子即位
 
草壁皇子のいたのは岡の宮とも島の宮ともいわれていて、石舞台古墳の辺りから、岡寺あたりを指していると思われる。 天智はなぜ、孫であるが、天武の子でもある草壁をこのあたりに置いたのか?
Photo_2 
★岡寺の三重の塔から、明日香村を見下ろす。
見晴らしはあまりよくない。やはりこの場所は、隠遁させられている感がある。
 
そして一番の疑問は、天武崩御後、殯が続き、草壁は立太子を済ませていたはずなのに、次の天皇の即位に長い間手間取ったのかということ。
また、天武崩御後に大津皇子、軽皇子即位直前に高市皇子と、天武の後継にふさわしい実力を持つ二人の皇子がこのタイミングで亡くなっている不可解さ。
 
本堂の立派な構えに見とれていて、肝心の本尊・如意輪観音像を見逃してしまった。
 
 
 
 Photo_3
 
★山を下って、石舞台古墳近くのレストランで昼食。
 
地元野菜で作ったスパゲッティを注文、昔懐かしい田舎でとれた野菜の味でおいしかった。
 
 
 
   Photo_4 
 
★昼食後、川原寺の横を通り、甘樫丘にある東麓遺跡を見ようと思ったが、表の道からは位置がよくわからなかった。
南に過ぎたあたりに駐車場があって、そこから山の中の道を歩くのが正解だったらしいが、後になって分かったこと、事前準備なしで行ったので仕方ない。で、飛鳥寺を右に見てまた雷丘にたどり着いてしまった。
 
 天皇の雷岳に御遊しし時に、柿本朝臣人麿の作れる歌一首
 大君は神にしませば天雲の雷の上に廬りせるかも
 
巻第三の巻頭をなす歌です。人麻呂の歌の雄大さと、実物の丘の見た目のギャップに、歌われているのは飛鳥の雷丘ではなく、筑紫の雷山だという説もありますが、どうでしょうか?
雷丘の雷にかけて、代々の皇(もしくは天武)が天におられますと持統天皇に語り掛けているので、こんな小さな丘の上に天皇がいるはずがないとか、天雲がこんな丘にかかるはずもない等という必要はないと思うのですが、それではいけないんでしょうか?
 
人麻呂は持統に好かれて、あちこち従駕し、歌を詠んだと思うが、位はさほど高くなかったのかもしれない。
 
現代からみると、人麿は万葉集第一の歌人であり、日本の言霊を調えた歌聖として、芭蕉と並ぶ大詩人の位置づけだが、当時そのような認識はもちろんなかっただろう。
なにより文字が万葉仮名で洗練されていず、当時、知識人のたしなみは和歌ではなく漢詩だった。藤原不比等に万葉の歌はないが、漢詩は残している。
 
岡本宮は雷丘の処にあったというが、雷丘を見て、岡本宮を想像するのは難しい。
 
 
 
Photo_5 
★豊浦宮の跡
 
 
 
Photo_6
 
★伝小墾田宮跡
 
小墾田宮については、ここではないという説のほうが有力になりつつあるか?
雷丘の東という説や、さらに北の大福の辺りという説も。
飛鳥は何といっても蘇我氏の土地である。豊浦はいかにも蘇我氏の懐の中といった感がある。
大福となると、その蘇我氏の懐から一歩踏み出したということになるだろう。
 
 
 
 
Photo_7
 
★藤原宮跡
 
 日本の故郷ともいわれ、その歴史の重さに比して、飛鳥の地は丘や小山が点在し、どちらかというとちまちました場所という印象さへあって、その落差がとても意外な感じがするのだが、それだけにこの藤原宮跡のなんと広々としていることか。 一気になにか別天地に移ったような開放感がある。
持統天皇もきっとそう感じたに違いない。
 
 春過ぎて夏来るらし白栲の衣乾したり天の香久山
 
初夏の季節感たっぷりな歌で、持統天皇の充実感、絶頂感も伝わってくる。
この歌が、藤原宮遷都前のものとされているのは、掲載順が時の流れに沿っているとするためか。飛鳥浄御原にありながら、藤原宮造営の様子を見に来たときのものなどの解釈がある。
 
持統6年(692年)、伊勢に行幸しようとする持統天皇を、農民を苦しめると言って、三輪高市麻呂が諫めたという事件がある。
持統天皇は単に物見遊山で伊勢にでかけたわけではないだろう。
690年と692年は伊勢で初めて遷宮が執り行われているので、この件ででかけた可能性が大きいと思う。
遷宮は現代でも大変な労力、時間、経費を要する儀式である。
当時は農民も多数かり出されたはずで、農繁期に入ろうというこの時期、農民にとってはたいへんな負担になったに違いない。
 
しかし、三輪高市麻呂の諫言にはもうひとつ別の意味が込められている気がしている…

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