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2016年6月

2016年6月 9日 (木)

山の辺の道 その後

昔読んで、本棚に置き放しの「日本の神々 谷川健一著 岩波新書」をぱらぱらと見ていたら、関連して、参考になるところがあったので、引用しておきます。
 
「『古事記』や『日本書紀』に登場する神々が、当時の国家体制に見合うように、皇統譜に組み込まれ整序されていることは明らかである。
 ……
日本の神々は後代になるほど変容が著しくなっている。したがってそれをそのまま神の履歴とするわけにはいかない。後代の付加物をできるだけ削ぎ落として、神の原型に迫る努力が必要とされる。いきおい神社神道や国家神道の外がわに置かれ、そのために古風を残すことができた民俗神や、仏教の薫染のきわめて少なかった奄美・沖縄の神々の中に、記紀以前の日本の神々の手がかりを求めることになった。―p.ⅱ」
 
この本の冒頭、「はじめに」には上記のようにあります。この本の立ち位置ということで紹介しておきます。)
  
  
●さてまず、天照大神についてですが、はじめは巫女だったが、のちに神とあがめられるようになったという話。
 
「大比留女があり、照日之菜があって、ともに日光に感精して子供を生んだ。「大日孁貴」「天照らす日女の命」などから、天照大神が日の妻、つまり太陽の妻であったことは疑い得ない。―p.119」
  
「伊勢神宮の神衣祭には、麻積連などが麻を積んで神衣をたてまつったとあるが、神衣を織ることは神に仕える巫女のする仕事である。こうしたことから大ヒルメは年上の巫女であり、若ヒルメはそれに仕える年若な巫女であったことが判明する。―p.119」
 
「こうして見れば天照大神も日光感情説話を背負った巫女であり、最初は日神の妻であったものが、やがて日神としてあがめられるようになったことは疑いない。それは巫女を神とする祭りの伝統からすれば、とりたてて怪しむべき事柄ではない。―p.120」
  
 
●天照大神・倭大国魂の二神を天皇の御殿にお祀りしていたことについて
 
「蝦夷はなぜ三諸山(三輪山)に向かって誓ったのであろうか。それはそこに天皇霊があると信じられたからであろう。三諸とは御室に由来する語で、三諸山には岩窟があり、そこが祭祀の場所となっていたと思われる。折口は三諸山、御室と宮中の「御室殿」と「斎戸殿(いわいべどの)」とをつなげて考えようとしている。―p.144」
 
天皇の御殿に二神を祀ったがその勢いを畏れ、共に住むには不安があったという不可解な書紀の文。三輪山の御室を御殿と曲解したものか?
 
 
●倭姫命が大神を鎮座する処を求めて各地をさまよったことについては…
 
「これは巫女であるヤマトヒメがアマテラスの形代(かたしろ)を背負って諸国を巡回したが、どこにもぴったりする場所がなく、たまたま伊勢国にきたとき、アマテラスがヤマトヒメに霊感を伝えたことを物語っている。それが「大神の教えのまにまに」と表現されている。これは神を背負ってさまよう東北の「あるきみこ」や南島の巫女がツヅの神(カン)を発見する過程とまったく同じである。
 アマテラスが憑依したヤマトヒメはアマテラスと一体になった巫女である。「日本書紀」は垂仁天皇がヤマトヒメを「御杖」としてアマテラスにたてまつったと記している。御杖というのはヤマトヒメがアマテラスの憑依者(依代)であったことを示す。―p.121」
 
 
●倭迹迹日百襲姫命のこと
 
 琉球の古謡集「おもろさうし」の引用から
 
 百度踏み揚がりや
 君の踏み揚がりや
 遊ぶ 清らや
 
「君」は沖縄ではすべて高級神女の呼称であり、男につけることはない。琉球王府の最高の神女が聞得大君(きこえおおきみ)である。「遊ぶ」は神遊びのことである。
 百十は百度と同じ、踏揚りは飛び上がること。私は韓国や奄美で、神がかりの巫女が跳躍する動作を繰り返す光景を何度も見たことがある。「日本書紀」には大物主神が倭迹迹日百襲姫に憑って神託を下したとある。迹迹日は鳥飛び、百襲は百度も重ねることであろう。倭迹迹日百襲姫も百十踏場もシャーマン・ダンスの状態を示したもので、厳密には特定された女につける固有名詞ということはできない。―p.126」
 
ところで日本書紀によると、倭迹迹日百襲姫命は、第7代孝霊天皇の妃、倭国香媛の子であり、弟に彦五十狭芹彦命がある。
そして、またの妃、絚某弟は吉備臣の先祖である稚武彦命を生まれたとあります。
彦五十狭芹彦命は崇神天皇が遣わした四道将軍の一人、吉備津彦命で、このへんに古代吉備と古代大和のつながりが垣間見えます。

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